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指拭きアーティストyohei×peequodコラボ『たんぽぽ』ロンT

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9年目の幕開けにふさわしい、素晴らしいコラボアイテム! 芸人・ママタルト檜原洋平としての顔も持つ指拭きアーティストyohei氏とのコラボです。 胸元にyohei氏の処女作『たんぽぽ』とyohei氏によるサインをプリントした白ロンT。 シンプルながらもアーティスティックな雰囲気で、存在感のある一着。 S〜XXLの5サイズ展開! United Athle ユナイテッドアスレ 5.6 oz ロングスリーブTシャツ S 着丈65cm 身幅49cm 肩幅42cm 袖丈61cm M 着丈69cm 身幅52cm 肩幅45cm 袖丈62cm L 着丈73cm 身幅55cm 肩幅48cm 袖丈63cm XL 着丈77cm 身幅58cm 肩幅52cm 袖丈64cm XXL(マネキン着用サイズ) 着丈81cm 身幅63cm 肩幅56cm 袖丈65cm 洗濯機、乾燥は可能ですが裏返しでの洗濯がオススメです。 プリントが断然キレイに長持ちします。 「全ての子供はアーティストだ。問題は、大人になってもアーティストでいつづける方法を見つけることだ。」 — パブロ・ピカソ アートとは何か。この問いに対して、明確で絶対的な答えは未だ存在しない。しかしピカソの言葉は、その核心に鋭く切り込んでいる。 要するにアートとは決して特別な技術や才能のことではなく、人間が本来持っている「自由な表現の衝動」ということだ。 子供が何のためらいもなく壁や床に絵を描き、真っ白な冷蔵庫にシールを貼りまくり、空想する姿はまさにアートの原初的な形である。 YouTubeのママタルト本物チャンネル「ひわら、2万%売れる特技発明」(2026年3月12日投稿)内にて、指拭きアーティストのyohei氏が目の前のお菓子を頬張りながら、ウェットティッシュに無邪気に絵を描く姿は、ピカソのいう「アート」の原初の形にかなり近いと言える。 私たち人間は成長するにつれて、皆が子供の頃持っていた「アーティスト性」を失っていく生き物である。 アンリ・マティスは次のように述べている。 「創造するとは、勇気を持つことだ。」 大人になるにつれ、人は他者の評価や社会的な規範に縛られるようになる。その結果、「正しいかどうか」「評価されるかどうか」を優先し、自分の内側から湧き上がる衝動を抑え込んでしまう。つまり、アートを遠ざけているのは能力の欠如ではなく、表現する勇気の喪失なのである。 「指についたチョコやお菓子の粉でナプキンに絵を描くなんてお行儀が悪いと怒られるかもしれない」といった社会的規範に縛られた考えよりも、「2万%売れる特技見つけたでぃ〜!」という純粋な衝動が優先されているyohei氏は、ピカソの言う「子供のアーティスト性」を今も失わずに持ち続けているのだ。 文脈に縛られすぎてがんじがらめに見える現代アート作品に一石を投じる───という意図を持たずしてそういった文脈の枠外で、天真爛漫にナプキンに絵を描いているyohei氏の姿にこそマティスの言う「勇気」を感じる。 逆説的ではあるが、わざわざ勇気を持とうとしないことこそ勇気となり、一石を投じる意図がないことこそが一石を投じることになっているのである。大仰に聞こえるかもだが、無我の境地というやつだ。 「人々が自伝を書くところを、私は絵を描く。 完成作でも、未完成作でもそれは私の日記なのだ。」 — パブロ・ピカソ ピカソは日記を綴るようにキャンバスに描く。 ピカソにとって絵を描くということは、描いているまさにその瞬間の、自分自身の精神、衝動、感情といったものを日記のように留めるという行為なのである。 yohei氏の指拭きアートは、そういう意味でもピカソに通じる部分がある。 動画内でyohei氏は抹茶チョコレートを食べているときには、「これめっちゃ美味しい!エレかさ(作家)もちょっと食べてごらんよ」と話しつつ茎と葉を描いている。 カレーせんを食べているときには、「俺はな、カレーせんべいな、牛乳とよう食べとってん」と懐古の気持ちで黄色の花弁を描いている。 チョコを食べているときには、相方・大鶴肥満氏への「なんのチョコ好き?」という質問に、「一本満足バー」というかなり195kgすぎる答えが返ってきたが、それをも包み込むように「一本満足バーな!美味いよな!」慈愛の気持ちで返しつつ中央の茶色の部分を描いている。 仲間に美味しいものを分け合う優しさが、過去を懐かしむ郷愁が、相方への慈愛が、筆よりもダイレクトな感触で指に乗っているのである。 だからこそ、優しさと暖かさのある絵になる。 ピカソにとってのキャンバスが日記であるよう、yohei氏にとってのウェットティッシュが日記なのだ。 しかも食べた物が画材になるというこの指拭きアートの性質が、よりこの日記性を強めている。 つまり、絵を描くとき実際に手に触れ、口に入れ、咀嚼し、自身の血肉になるものによって描かれているのである。 それは絵画による「瞬間」の切り取りと日記性に、より強い説得力を与える。 指拭きアートは間違いなく、最もアートなものの一つである。 そしてこの素晴らしい指拭きアートがこの世界に誕生した瞬間に立ち会えた我々は幸運である。 あとがき 評論めいた文章を偉そうに書いたが、アートを評論すること自体の良し悪しもアート界では長いこと議論され続けている。 「アートは感じることこそが重要であり評論は無用である。美術館の絵画の横にある説明文は無意味などころか、人々が感じることの邪魔をさえしている。」といった具合に。 実際その批評は、決して間違ってはいない。 アート評論とは少し違うが、映画『レミーのおいしいレストラン』に登場する料理評論家のイーゴという人物がいる。彼は自身の評論の中で 「評論家とは気楽な稼業だ。 危険を犯すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。 辛口な評論は、書くのも読むのも楽しいし、商売になる。 だが、評論家には、苦々しい真実がつきまとう。 たとえ評論家にはこけ降ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が、評論より意味がある。」 と記している。 評論家が机上でどれだけ達者な評論を書いたとて、子どもの落書きよりも飲むフリスクよりも金粉まぶし寿司屋よりも、実存的価値は劣ってしまうのである。 当然と言えば当然だ。飾って華やかになるわけでも、カロリーもなければ何の栄養もないのだから。 しかし──と、イーゴの評論は続く 「しかし、時に評論家も冒険する。 その冒険とは、新しい才能を見つけ、守ること。 世間は往往にして新しい才能や創造物に冷たい。 新人には味方が必要だ。」 そう。評論自体の持つ価値の脆弱さは認めつつも、それでも評論は決して無意味なものではないと続くのである。 何も説明も文脈もハロー効果もなく、素晴らしいものを誰もが一目で素晴らしいと感じることができればいいが、恐らくそんな作品は世界に一つもない。 『真珠の耳飾りの少女』だって、フェルメールの死後200年経ってから、オランダの絵画を研究する評論家によって「こいつの光の手法すごいんだが」と評価されてようやく、正当な価値とフェルメールの功績が守られたのである。 当時は1万円で取引されたこの絵が、今では100億円とも言われている。極端な例ではあるが、これこそが評論の意味なのである。 初めから良さを感じることのできた人にとっては蛇足にしかならない評論であるが、素通りしかけていた人が立ち止まり何かを感じるきっかけになれば評論家としては最大の喜びである。 些細なヒントがないだけで、一生物の素晴らしい作品との出会いが失われる人がいる。作者にとっても鑑賞者にとっても、こんなに勿体ないことはない。 最後に先ほどのイーゴの評論の続きを引用してこの文章を締めようと思う。 「誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくはない。」 「ママタルトのひわちゃん」が「世界の指拭きアーティストyohei」になっても、何の不思議もないのである。 ──peequod代表 山村将太

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