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重い女。
字面だけで気持ちがズーンとなるダークさとヘビーさがある。
決していい意味で使われることのないこの言葉だが、実は「重い女」と一口に言ってもそれは絶対的なものではない。
「(その女の男にとって)重い女」なわけで、相対的なものなのだ。
「重い女」は1人では存在しえない。その重い女と同じだけの重さが男にあれば、別にそれはそれでバランスが取れて「重い女」という存在はいなくなる。
大学生のときキャンパス内でも「重い」と定評のある男女どうしが付き合うことになって「これはもう実質“貞子vs伽椰子”じゃん。より重い“呪い”が勝つぞ・・・」と見守っていたが、なんだかんだで仲良くやってた。きっと、バランスが取れていたのだろう。
ミスチルが昔「恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム」と歌っていたが、結局はバランスなわけでパートナーどうしのバランスが取れなければより重い方が沈んでいく。
バランスが取れなければ2人とも敗者のシーソーゲーム。
これは俺らの身近な、まさにこれを見てる人が手に持ってるスマホやPCでも同じことが言える。
どれだけ重い大容量画像フォルダでも難なく処理できるスペックの高い機種もあれば、逆に画像1枚のインスタ投稿でも全然開かないようなものもある。
処理できる内臓ストレージやメモリ容量のスペックが低ければ、相対的に相手側が「重い」と言われるわけである。結局はバランスだ。
そしてそのスペックは男のスペックに比例する、わけでは決してなく、愛の多寡に比例している。バカデカい愛にはよりバカデカい愛があればキャパオーバーになることはない。
と、ここまで書いたけど別に「愛が少ない側が悪い」と言いたいわけではない。
バランスを取れないときは必ず両方に原因がある。
自分にたいしてそんなに愛情がないとわかっている相手にたいして重い愛情をぶつける人がいるがそれはもう暴力であり送りつけ商法であり犯罪だ。
思いやりもマナーもない。
ガラケーに6100万画素のデータ送り続けるような愛情表現をしてはいけない。
何にでも「適切」というラインがある。
重いのもけっこうだけど相手のキャパを思いやってあげることだって大切だ。恋愛は2人でするもので、2人でバランスを取り合っていかないといけないのだから。どちらかの楽はどちらかの負担になる。必ず。
そして、恋愛においても、人間は誰にでも「通信制限」的なものがある。
どうしても恋愛以外の、仕事や学校や家族や私生活のことにギガ数持っていかれて余裕がなくなってキャパオーバーになる。
パートナーが「通信制限」なってそうなときには、こちらの愛情を阿部寛のホームページくらいのカジュアルさにしてあげることも大事である。
それが思いやりというものだから。
ってえらそうに書いてるけど実際ガチで人を好きになるとそんなこと全部考えてられないくらいバグっちゃうよな、恋愛ムジ〜〜!ガハハ!!